伊波勝也のトップ当選戦略

9月11日夕方、ブルブル、ブルブル、携帯電話が震えている。電話の着信である。

「はい、伊波です」

「あ、もしもし、こんにちは。前衆議院議員の屋良朝博です。伊波さんに、投票のお願いで電話をしています」

「あ~、大丈夫です。デニーさんに投票しますから」

「そうですか、よろしくお願いします」

投票締め切り直前のこの時間、前衆議院議員からの直接の電話。このとき、自分の余裕の当選を確信した。選挙の動向に敏感な選挙対策事務所のトップクラスが私を当選者と読んでいる。そして、与党野党の立場を表明しない私の立ち位置を確認している。

私はこの市議会議員選挙でトップ当選をするつもりで戦略を立てて実行していった。それは5つの戦略であった。

まず一つ目はテレビCMの利用である。私の運営する学習塾は長年テレビCMを放映してきているのでほとんどの人がその会社名を知っている。その知名度を利用しようと考えた。4月から9月にかけて流してきたが、その費用はかなりの金額である。

二つ目は人物イメージの定着である。帽子に作業服姿の私を「子供にワクチン要らない」と結び付けて、私の人物像と私の主張を人々に定着させようと考えた。

三つ目は、早めの周知活動・政治活動の開始であった。毎朝、同じ時間に決まった場所で「子供にワクチン要らない」の主張を拡声器を使って通行人・運転者に訴えていった。その際は、帽子と作業服、そして「子供にワクチン要らない」のプラカードは必ずセットであった。私は他の候補者が表立って動き始めるずっと以前、選挙日の4か月前から名護市役所前の交差点で街宣活動を行ってきた。

四つ目は、選挙期間直前のパンフレットの市内全世帯への配布であった。一部地域を除いてほぼ全世帯にポスティングされたはずである。これが配布されたときに人々は初めて、毎日市役所前で「子供にワクチン要らない」を訴えていたのは、テレビCMで有名なスタディの経営者だったんだと気づかせる。知名度が私に対する安心感と安定感に結び付くと考えた。ちなみに、私の手元にある他の候補者のパンフレットは4枚のみ、他の候補者はこの4人以外パンフレットを配っていない。

五つ目は街宣活動のスピーチ力の強化と維持であった。名護は街角に人がいない。人が集まっている場所がない。名護の立候補者は街宣の機会がない。スピーチ力を鍛える機会がない。私は4月の初頭から県庁前の県民広場で毎朝1時間、県庁職員と通行人に「子供にワクチン要らない」を訴え続けた。原稿を使わない生の言葉で訴え続けた。名護では車が信号で止まる1分間しかスピーチできないが、那覇ではその制限がなく自由な表現ができる。名護での街宣に集中するようになっても定期的な那覇での街宣活動は続けた。那覇で強化した街宣の力量は名護の立候補者の街宣能力を凌駕すると考えた。

そして、選挙期間の選挙戦に突入。選挙カーでの演説は禁止されているので私は選挙カーを使わなかった。私は街角で「子供にワクチン要らない」の主張と自分の名前を人々(特に運転手)に訴えることに集中した。選挙カーに乗って各地を回らなくても、交通量の多い主要交差点に立っていたら各地から来た多くの車が私の前を通り過ぎる。そして私の街宣を聞いてくれると考えた。

結局、33人の候補者の中で街宣をしたのはほぼ私一人だけ、他の立候補者は表に立って自分の主張を訴えることはなかった。名護は人が集まる場所がないので他の立候補者は街宣をする機会に恵まれず、慣れていないため選挙のときに拡声器を使って政策を訴えることができないと、失礼な話だが私はそう考えた。

しかし、選挙運動期間の最終日に饒波優美候補が街宣をしているのを確認した。また同じく最終日に私が街宣をしている交差点に嘉陽宗一郎候補が応援団を引き連れて何の断りもなく入ってきて、私がスピーチをしている最中にその言葉をさえぎって自分のスピーチを始めた。私は自分のスピーチを途中で中断した。これは自分が街宣ができると他の応援団と私に見せるための嘉陽宗一郎候補のパフォーマンスであると私は解釈した。結局のところ、街角・主要交差点で街宣をして、自分の姿を公の場に見せて街宣をして自分の主張を展開したのはほぼ私一人だけであったと思っている。

選挙期間中に交差点で街宣をしていると、多くの人が手を振ってくれて、そして頑張ってという声援を頂いた。ここ2,3年、今年の3月まで山本太郎議員が率いる「れいわ新選組」の選挙運動をしてきたが、選挙期間中は多くの人が車から「れいわ新選組」に応援の手を振ってくれた。今回私は自分が立候補して、「れいわ新選組」の選挙運動のとき以上の市民の賛同・応援を感じ取った。それくらい多くの人が私に応援の手を振ってくれて、また頑張ってと声掛けをしてくれた。選挙期間中、最終日に連続で4台の車から声援を頂いた。間を置かず4台の車から手を振っての声援を頂いた。こんなことは、太郎さんのポスターを持っての「れいわ新選組」の選挙運動でもなかったことである。

この時に私は確信した。選挙活動は実った。私はトップ当選できる。「れいわ新選組」の比例の沖縄での基礎票が7%。私も同様に7%、有効得票数3万人にこの7%を乗じて私の得票数は2100票と私は頭の中で概算した。

そして、ついに選挙結果の出た。

私は94票で最下位、落選。
そして、1位2位3位が、岸本洋平2996票、嘉陽宗一郎1991票、古波蔵太1490票となっている。

ちなみに、1位2位3位の得票は

2018年 1386票、1359票、1340票

2014年 1334票、1325票、1212票

2010年 1476票、1251票、1242票

2006年 1542票、1455票、1448票

2002年 1375票、1139票、1123票

1998年 1113票、1095票、1049票

となっている。地方議員は地縁・血縁でほぼ得票数が決まり、地縁血縁の領域を超えて票数が変動することがほとんどない。トップ当選はほぼ1300票、1400票前後で落ち着いている。この落ち着きは、地縁・血縁の広がりに限界があるからである。

ところで、トップ当選で私が獲得したはずの2100票はどこにいったのか。私から収奪した票数は他の誰かに回さなければならない。そして、その回した先が、岸本洋平の2996票、嘉陽宗一郎の1991票である。地方選挙は地縁・血縁の広がりの限界から1300票、1400票を大幅に超えるはずはないはずである。それが、1位2996票、2位1991票。1998年から2018年までの傾向からの大幅な逸脱である。

いったい誰が、この数字を説明できるのか。

沖縄県選挙管理委員会を背後で指揮する勢力は、不正選挙を指摘・抗議する私に3匹の死んだ猫をプレゼントした。しかし、今回はプレゼントではなく収奪であった。トップ当選したはずのわたしの獲得票、2100票から2000票を収奪した。そして、その2000票を1位当選者と2位当選者に振り分けた。そのように分析すると、1位2996票、2位1991票の不自然な数字がスポっと腑に落ちる。

分析をもっと深入りすると、岸本洋平候補ただ一人への票の分配・集中は野党陣営の候補者の票数を増やさないためである。いや、当落ぎりぎりの候補者から票を削り取って岸本洋平候補に振り分けたとも考えられる。

いずれにしても、今回の名護市議会議員選挙、あきれ果てるほど不自然な選挙結果が出たものである。

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