夜明け前に目が覚めて、愛読書の小説を読む。少し読んだところで、熱いお茶が飲みたくなった。熱いお茶を左手のカップですすりながら、キーボードを打つ。こんな時間に自分がお茶をすすりながらキーボードを打っていること、これは運命である。天の摂理で決まっていたことである。
そしてまた思う。人の今ある姿は、過去の積み重ねの結果である。善因は善果を生み出し、悪因は悪果を生み出していく。運命という天の計らいを受け入れるとき、人は心の平穏を得る。しかしまた、心の平穏を波立たせて運命に抗するのもまた人の有様である。心の中の治まらない荒波に身をまかせたくなる。
権力は運命の甘受を人々に仕向ける。消費税10%、基地建設やオリンピックの巨額な利権、カジノ利権、首相のお友達優遇、社会保障費削減、上級国民の不逮捕、閣僚と暴力団の癒着。挙げれば切りがない。選ばれた上級国民の優位性と生活を守るため、下々は我慢せよ。
我慢などしなくてよい。仕方がないと思わなくてよい。権力の求める理不尽な我慢に、怒りで抗ってよい。怒りに震えてよい。
因果応報という言葉が頭に浮かぶ。今は、過去の積み重ねの結果である。未来は、現在の積み重ねの結果である。人は現状を甘受しなくてもよい。運命は作り出せる。
※因果応報(いんがおうほう)
仏教用語:「前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること」デジタル大辞林
コメント